歴史紀行 第10回 〜 川内水軍衆と福島大和守伝説
「歴史紀行」も10回目となり、連載が進むにつれてたくさんの読者の方から大きな反響をいただくようになり、筆者として嬉しい限りです。時の流れの中に埋もれたこの地域の歴史小話をなお一層掘り起こしてゆきたいと思っておりますのでどうぞよろしくお願いいたします。^^;
さて、5〜600年前、広島のデルタはまだ出来ておらず、広島湾は内陸奥深くまで入り込んでいました。
山陽道に当たる西国街道も己斐や草津の辺りはまだ海で歩けず、人々は府中から戸坂へ抜け、太田川を渡し船で西原に渡り、祇園の安神社の脇を通って銀山(武田山)の下をぐるりと北へ回って大町から安、沼田へ進み、石内を経て五日市、山口方面に進むというコースでした。したがって銀山の南側正面の太田川口は広島湾に面した河口でもあり、船を操ることに長けた水軍衆がいました。
川之内水軍衆と言い、広島菜の名産地である今の川内の辺りを拠点にしていたようで、これを束ねていたのが福島氏でした。
川内水軍衆は武田水軍として組み込まれ、安芸に侵攻する周防山口の大内氏との広島湾での戦いで随分奮戦しこれを防いだとのこと。武田氏が滅んだ後は毛利氏に属し、あの厳島合戦でも活躍して毛利の勝利に貢献したとか…中筋にある才の木神社はこの川内水軍衆の総帥、福島氏の拠り所だったそうで、この北側に福島氏の屋敷があったと言います。
また川内の山陽道広島インターの脇にある黄幡神社は福島大和守親長が川内堤防の守護神として勧請したとの石碑が境内に建ち、その近くには福島大和守親長と言い伝えられる墓も。また川内中調子の明円寺は慶長9年(1604年)、親長の子孫、福島大和守真道の次男が出家し 僧 行空となり開基した寺で山号も福島山となっています。
福島氏がこの辺りに根を張っていた勢力だったのが分かります。
いや〜、歴史ってホントに面白いですね〜
これだからやめられません、、^ ^ (つづく)
郷土作家 つかさまこと