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歴史紀行第17回~毛利元就編 その③ 厳島合戦伝説

 世界中で猛威をふるう新型コロナウイルス…何かと制約されて気が滅入りますが、そんな時こそ悠久の歴史の流れの中に身を浸してみてはいかがでしょうか。さて、山陰の雄 尼子氏を撃退し天下に名を馳せて15年後の天文24年(1555年)、58歳の時元就は遂に乾坤一擲の大勝負に出ます。ことあるごとに進攻して安芸国(広島)の平穏を脅かす周防(山口)の大内氏に対し戦いを挑んだのです。天文20年(1551年)「西の京都」とも称された貴族的な生活に浸り遊興に耽っていた主、大内義隆を下剋上によって滅ぼし実権を握った家臣の陶晴賢(すえはるかた)。元就はそこで策略をめぐらし、厳島内に城を築き毛利兵を入れて挑発。これにおびき寄せられた陶軍2万の大軍に対し、毛利軍は4000の兵を2つに分け、暴風雨の中、元就自ら本隊を率いて夜中に島の裏側(包ヶ浦)へ上陸。後世この時のイチかバチかの作戦をもじって「博奕(ばくち)尾(お)」と呼ばれた険しい尾根を闇に紛れて進み、夜明けと同時に島正面の小早川軍や加勢した村上水軍らの別動隊と挟み撃ちにして奇襲。寝込みを襲われ混乱する陶軍を圧倒し、ついに殲滅。鎌倉時代より長らく権勢をふるった周防大内氏は滅亡することとなったのです。大軍を厳島におびき寄せ封じ込め、奇襲によって撃滅する…綿密に立てた策略の勝利でした。
 その後中国地方の覇者となり、郡山城で75歳の生涯を終えた毛利元就。その家訓は「けっして天下を望むな」というものでした。1589年、孫の輝元の代に広島城を築き太田川河口のデルタ地帯に進出。城下町も整備し、現在の百万都市広島の礎を作ることとなったのです。                  (つづく)
          (郷土作家 つかさまこと)