歴史紀行 第11回 ~山本 湯つぼ伝説
さて、武田山をめぐる攻防から中世のお話を色々としてきましたが、今回は近世、
江戸時代から明治にかけてのお話…中国地方から九州へ抜ける近世の山陽道(現在の国道2号線)
にあたる西国街道は中世は広島のデルタはまだ海だったため、戸坂・牛田辺から太田川を祇園
・長束へ渡り、武田山の北側を通って沼田を回り石内、廿日市方面に抜けていました。次第に
己斐や古江、草津の辺りが陸地となって歩けるようになると、遠回りせず長束・祇園から山本を
通り己斐峠へ抜ける道が頻繁に使われるようになりました。現在の春日野団地を右上に仰いで
山本の古くからの道を登って行き、専念寺脇から平山八幡神社を右手に見ながら己斐峠に抜ける
林道を進むと、墓苑の向かい側に「やん谷自然道」と記された大きな木柱が立っています。ここ
から林道を山の方にずっと登って行った辺りに、江戸から明治中期まで温泉があり大いに栄えた
らしいのです。この山を丸山と言い、当時は湯浴みしたあと頂上近くの上観音に参って祈願すると、
霊験あらたか病気が全快すると評判で、小屋掛けの湯つぼも建てられ土産物などを売る茶屋も出来て
随分繁盛したとか。しかも人の入る湯殿の少し下には牛馬の入る家畜用の湯つぼ跡も残っています。
人馬が一緒に温泉でくつろぐ、何とものどかで風流な光景ではありませんか…広島のデルタの発展と
ともに西国街道も平地のデルタの上を横切るようになり、その後は湯も枯れ、この温泉も廃れたと
いうことです。今は石垣だけの湯つぼ跡にすっぽりと体を入れて、“ 湯つぼも跡も夢の跡 ”を味わって
みてはいかがでしょうか…。 (つづく)
( 郷土作家 つかさまこと )