歴史紀行 第9回~武田小三郎伝説
天文9年(1540年)、33歳の若さでなくなった豪傑 武田光和には子供が無かったことから、
跡目をめぐる家中の争いが紛糾します。ところが側室お八重との間に小三郎と言う男児が
いるのを八木の香川光景が見つけます。会ってみると光和に生き写しで見どころもある少年
でした。光景は小三郎を盛り立てて武田家中の主導権を握ろうと考えたのか、お八重と小三郎を
毛利元就に引き合わせ、銀山城での武田再興の約束を取りつけて、この母子を周防(山口)の玖珂に
かくまいます。翌 天文10年(1541年)、銀山城の武田家は元就によって滅ぼされてしまい、その後
の大内氏や陶氏との軋轢の中で結局小三郎が銀山城主になることは叶いませんでした。しかし、
武田小三郎はその後精進して武田古柔術を身につけた武者に成長し、毛利方として厳島合戦にも参戦。
元就にも気に入られ傍近くに終生仕え、74歳まで生きたとのこと。ちなみにこの小三郎を祖とする
系統を「周防武田氏」と言い、なんと現在まで脈々と系譜をつないでいます。江戸後期の12代目に
宗左衛門という村人に読み書きを教える教育者が出て、その後呉に渡り、現在もある「呉武田学園」
(中学・高校)はその周防武田氏の子孫の方々が今も引き継がれているそうです。